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2023年7月19日 (水)

クラウドファンディング始めます!

今日は、私が理事長を務めているNPO法人ほっぷすてっぷについて
書きたいと思います。

親の支援を受けられない子どもや若年者がいます。
どんなイメージを持つでしょうか?
私達の法人にも様々な相談が寄せられるのですが、

 ・親から虐待を受けているが、18歳を過ぎていて
  児童相談所では保護してもらえない

 ・親に精神疾患があり生活力がないため、
  子どももお金がなく学校にも通えなくなった

 ・母親の交際相手からの性被害がある

などなど、支援を受けられないどころか、親から様々な
被害を受けていたりします。

そのような子どもや若年者(15歳~30歳未満くらいを想定)の
居住支援のため、NPO法人でシェアハウスを運営しています。

 NPO法人ほっぷすてっぷ 

シェアハウスは現在、個室が5部屋あり満室状態が続いています。
入居者の多くは、入居当初は生活保護を受けて、
生活することになりますが、シェアハウスはあくまでも
一時的な住まいなので、いずれ自立することになります。
それまで、当法人が伴走支援を行って、一緒に自立を
目指していきます。

ところで、同じような状況にある子どもや若年者が入る施設として
「自立援助ホーム」というのがあります。
仙台市には1カ所しかないので、満室の事が多いと聞きます。
自立援助ホームでは、入所者から一定の利用料(3万円位が相場)を
徴収しますが、そのほかかかる家賃とか食費とかはなく、
それでも自立援助ホームの子たちは経済的に苦しいことに
変わりはないのですが、シェアハウスと比べると、職員さんも
常駐していたり、保護の制度が全然違います。
なので、私も、いずれシェアハウスを自立援助ホームにできれば
と考えていました。
しかし、自立援助ホームは児童相談所を通して入所することとなり
色々な要件を満たさないと入れません。
シェアハウスは行政の枠組みの外で運営していますので、
一応要件はあるものの「親に頼れない事」が決まっているだけで
あとはケースに応じて柔軟に受入れをしています。

やっぱり、どちらも必要だよね!と思うに至りました。

けれど、そんな都合のいい物件が、、、、と思っていたら
なんと理想的な物件に出会うことができ、素晴らしいご支援により
借りることができたのです。
半分を自立援助ホームにして、半分は今までのようなシェアハウスで
制度の隙間を埋めながら、運営できるような大きな物件です。

自立援助ホームの開設には、様々な準備が必要で
専門職の職員雇用や、お部屋の改修など、
かなりの金額が必要になります。
助成金や補助金も色々検討し、申請もしました。
通常であれば、改修費は行政から補助金が出るのですが
年度の予算は早々と決まっており、今年はもう出せないと
言われました。
なんとか資金を集めて、自立援助ホームを開設したい、
シェアハウスも引っ越さなければ、、、、
ということで、クラウドファンディングをすることに
なったのです。

正直、寄付を募る、という事が苦手で、
「こんなに何回も言われたら嫌じゃないかな」、とか
嫌がられる前提で考えてしまいがちなのですが、
今回は、READYFORさんのお力を借りて、色々と
助けていただいております。
私としては、自立援助ホームを開設するということも、
今回のような多額のクラウドファンディングなど
初めてのことばかりで、正直不安しかありませんが、
次から次へとやってくる女の子たちのことを考え、
頑張ろう!と決意しました。

なんとか、一人でも多くの方々のご支援を頂きたく、
お願い致します。
目標金額に達しなければ1円ももらえないシステムです。
明日7月20日10時スタート、8月31日までとなっています。
何卒、よろしくお願い致します!!

  サイトはこちら 

2022年5月23日 (月)

怪我は突然に

 怪我は突然やってきます。

 当たり前といえば当たり前です。

 でも、実際怪我をしてしまうと、

 「なぜこんなことに、、、、。」と

 誰もが思いますよね。


 土曜日に自宅のお風呂掃除をして、窓を開けておき、

 その夜、風呂に入った私は、窓の鍵が開いているのを見て、

 母が戸だけを閉めたのだなと思い、鍵を閉めようと思いました。

 ところで我が家のお風呂は、以前はだだっ広いタイル貼りの

 浴室だったのですが、震災後、ユニットバスにリフォームしました。

 その際、サイズに合うユニットがなく、少し小さいものを入れたので

 もともとの浴室の壁とユニットバスとの間に空洞?ができたんです。

 でも、もともとの窓を活かしているので、

 中から見ると、窓の部分が出窓のようになっていて、

 その奥行きが1メートルくらいあります。

 外から見ても出窓にはなっていません。

 その窓の鍵を中から閉めるには、浴槽のふちに乗らなければ

 届きませんので、いつも上って閉めています。

 なので、いつものように上って閉めようとしました。

 一瞬何が起きたのかわかりませんでしたが、気が付いたら

 私は、風呂のフタとともに浴槽の中に立っていて、

 裸でわき腹を押さえ、今まで出したことのない声を

 出しておりました。

 足を滑らせて?わき腹を角の出っ張りに打ち付けた模様。

 強さ的には、直角に出っ張っているところに、

 脇から落とされたくらいの勢いですね、たぶん。

 今まで経験したことのない痛さというか、衝撃。

 息ができない時間が1分くらいあったはず。

 そのあとも、さっぱり痛みはとれず、その日は寝返りも

 打てないほどでした。

 もしかしたら肋骨にひびが入っているかもしれませんが、

 病院にいったところでどうしようもないので、そのまま

 放置しています。

 やっとぎっくり腰が良くなったと思ったら、今度は肋骨。

 これも老化なのでしょうか。。。

 思い出すと何回も笑ってしまうので、

 みなさんも笑ってください。いや、気を付けてくださいね。

2021年11月24日 (水)

女川で相続を語る女たち

 司法書士制度は、来年で150周年を迎えます。
 昔は、「代書人」と言われていました。
 渋沢栄一の時代です。
 
 150周年なので、司法書士会では色々な記念事業を行っています。

 東北ブロック司法書士会では、「相続・遺言セミナー」を
 今年10月23日に宮城県女川町で開催しました。

 開催と言っても、集合イベントではなく、
 収録を行って、動画をYouTubeで配信することになったのですが、
 やっと、動画を公開しました。

 「女川で相続を語る女たち」というタイトルで、
 ゲストに女優の高橋惠子さんをお迎えし、座談会を行いました。
 
 動画はこちら。 https://youtu.be/rj-XJi8tmXw

 座談会は3つの動画になっており、なんと私が、高橋惠子さんと
 女川の町をめぐって語り合っているオープニング動画もあります。

 ぜひ、ご覧になってみてくださいね。

 11月28日には、相続や遺言についての無料電話相談会もあります。

 この機会に、お気軽にご相談ください。
A4

2021年8月13日 (金)

お盆ですが・・・

 お盆に入りましたが、コロナの感染状況を鑑みて

 今年はお墓参りは見合わせました結果、地味に仕事をしています。


 先日、私が後見人を務めていたご高齢の被後見人が

 お亡くなりになって、葬儀関係の手配のお手伝いをしました。

 もう何回も経験しているので、葬儀関係やお墓・お寺のことも

 少し詳しくなりました。


 ご親族はどうしても、夜中に呼び出されたりしてパニック状態、

 とまではいかないにせよ、心が乱れており、なかなかスムーズに

 色々なことが進められないことが多いので、私のような第三者が

 ある程度仕切らせていただく方がいいこともあります。

 が、場合によりけりです。でしゃばらないほうがいいことも

 多々あります。


 見極めは難しいですけれど。。。


 そんな中、自分のお墓を購入しました。

 いわゆる樹木葬というやつですが、

 一本の木の下に眠る、、、というイメージとは全然ちがう、

 どちらかというと、公園墓地みたいな感じです。

 入る人が誰もいなくなった後の管理料がかからず、

 ペットも一緒に入れる、しかも何人でも入れる、という

 家族版の共同墓ですね。

 うちの両親もそこに入って、祖父母の入っている墓は

 墓じまいすると言っています。

 子どもたちに負担をかけたくないので、あとは子どもたちが

 好きにすればいいかなと思っています。Img_3113_20210813185601

 

2020年11月14日 (土)

退職慰労金の現物給付による登記

 先日、解散する株式会社の所有する不動産について、
退職する取締役への退職慰労金として現物給付したいという
ご相談がありました。

 今はインターネットで色々調べられる時代。なかなか実務本にも
書かれていないので、ネットで検索しながら調べてみると。。。

 色々な司法書士(ほぼ知り合い)が書いてくださっていましたが、
やはりいつもの内藤先生のブログにも書かれてありました。

 https://blog.goo.ne.jp/tks-naito/e/f3c949f52fc611989ac22e54b1a3005e

 さすがです。
 内藤先生のお書きになっていたとおり、私も「退職慰労金の給付」では
違和感があり(不動産なのに、「金」の給付じゃないじゃん)ましたので、
念のため法務局に照会かけることにしました。
 照会文書は以下の通りです。

 会社法第361条第1項第3号の規定により、株主総会の決議にて退職慰労金を金銭ではなく現物(不動産)給付することを決議し、当該不動産につき所有権移転登記申請する場合の登記原因は、過去に「年月日会社法第361条第1項第3号の規定による移転」あるいは「年月日退職慰労金の給付」として受理された例があるということで、統一見解があるのか判然としませんが、当職としては、「年月日会社法第361条第1項第3号の報酬等としての給付」が適切ではないかという司法書士内藤卓氏の見解を採用したいと考えるが、いかがでしょうか?


 自分で考えた文言ではなかったので、引用元をはっきりさせたほうが
いいかなと思い、勝手に内藤先生の名前を出しました(笑)

 法務局からの回答は(電話です)、
 ① 先例がない(登記研究の質疑応答には縛られないという意味)
 ② 内容が合っていて、そのような登記原因証明情報が提出されれば、
   こちらとしては、どのような文言であっても却下はできない
 というものでした。
 ちなみに、支局管轄の物件だったことをあとから思い出しましたが
本局に照会してしまい、それを言ったら
 「あぁ~、それは支局の登記官次第ですね~、、、」と言われました。
 が、結局原因はこれでいいということで、
 「年月日会社法第361条第1項第3号の報酬等としての給付」
 ということで、後日そのとおり登記がされました。

 内藤先生!やりました!

 ちなみに、管轄の支局からは申請後電話がかかってきたのですが、
原因云々ではなく、「利益相反なんで~、議事録出してください」
という電話を補助者がうけて「わかりました」と返事していたので、
「いやいや、利益相反じゃないから議事録はいらないよ」と言って
登記官に電話しました。
(ちなみに報告型の登記原因証明情報を作成して提出してある)
森田 「これは、売買とか贈与と同じような『取引』ではなくて
    報酬の給付ですから利益相反にはならないですよね」
登  「ん?そんなこと、どっかに書いてあります?」
森田 「あぁ、はい、いっぱい書いてあります」
登  「そうですか、じゃ、もう一回確認します」

 その後、再度の電話はなく、登記は完了しました。

 という、たまには真面目な登記のお話でした。

2020年9月29日 (火)

「親に頼れない」学生の困窮問題

 ブログを長々書きながら、自分の頭を整理しているので
それを読まされている方にしてみたら迷惑かもしれないけれど、
今日もそんなまとまりのない話です。

 私のところには、様々な事情を抱えながら「親には頼れない」
若者が相談に来る。働いている子もいれば、学生もいる。

 先日、専門学校に入ったばかりの18歳の女の子が相談にきた。
詳しい事情は書けないが、私も色々なアドバイスをしたり、
とりあえずの食料等の支援をしたりして、話をきいていたのだが、
本人がお金の苦労をするのに疲れてしまったらしく、とうとう
学校はやめて一旦実家に帰ることにしました、という報告があった。

 親に学費を出してもらえない子は、ほとんどが学生支援機構から
奨学金をもらって(あるいは借りて)賄っていると思うが、
学生支援機構も、窓口になる学校(進学後の大学や専門学校)も、
「奨学金の当事者は学生本人なので、本人から相談させてください」
と言って、たとえ後見人であろうと他者は直接交渉はさせてくれない。
 確かに、当事者は学生で、本人の責任でお金を受け取ることになる。
それは間違いではないけれど、入学してすぐにインターネットで申請する
内容に間違いがないのかどうか、その子の事情を勘案してチェックしてくれる
機関がないので、本人が間違った情報で申請してしまうこともある。
 また本人がどれくらい、そこに書かれている内容を理解し、言葉の意味を
わかって回答しているのか、そこも学校では丁寧にチェックしてくれない。
 結果、実態とは異なった内容で申請が行われ、本来受けられるものが
受け取れないでしまうことも多々ある。

 先に書いた女の子も、本来であれば受けられた国の助成制度を受けられず
困窮していた。
 また、以前別の学生も、申請する際の住所についての認識が間違っていて
支給される金額が減額されていた例もある。

 学校現場においては、「親の支援を受けずに進学する」子は少数で、
もちろん理解のある先生やSSWなどに相談できれば、なんとか支援につながる
場合もあるのだが、「親がいるんだからまずは親に頼りなさい」と言うのでは
そこで関係性がシャットアウトされてしまう。

 「進学するくらいなのだから、親がお金を出しているのだろう」との推測は
間違っていないこともあるかもしれないが、親には頼れない子にしてみれば、
「誰も理解してくれない」との思いを抱くことになる。そのようなデリケートな
事情は友達にも相談できず、かといってどこに相談すればいいのかもわからず、
悩んでしまうことが多い。

 学校を辞める、しかも嫌だった親の元に帰るという選択は苦渋の決断だったと
思うが、未成年でお金の苦労をしながら、勉強もしてバイトもして、というのは
本当に覚悟がないとできない生活だ。

 最近は給付型の奨学金も多く準備されているけれど、貸与型の借金を
卒業後に返還しなければならないというプレッシャーも本人にとっては
辛く苦しいものになる。このコロナ禍で、返還猶予の申し出も増えている
と思う。
 そのような多額の借金を背負う手続きなのに、高校生にすべて理解しろと
言うのは無理がある。もちろん個人差があるので、一人で完璧に手続き
できる子もいるかもしれないが、例えば勉強はできても、そういう手続きとか
お金の計算とかは苦手だったり、社会経験がない分理解力に乏しい子が
圧倒的に多いはずだ。
 なんとか、学生一人一人に寄り添って手続きができるような体制ができない
ものなのか、もんもんとしてしまう。
 成年年齢が18歳になったらなおさら、成人として扱われ、契約時の失敗は
許されない。
 本来、時間をかけて説明し、丁寧に進めるべき手続きが、進学時のバタバタと
ともに流れて行ってしまい、本人も自覚がないまま契約していることになる。
本人は「契約」している実感もないままにだ。

 毎年毎年、少数ではあるが、確実に困っている学生が存在している。
 その事実を、機構にも、学校にも、社会にも、知ってもらいたい。

2020年8月27日 (木)

不在者と失踪宣告

 久しぶりではありますが、1年は空いていないのだけど

 ココログから、「更新しないと無料でできなくなりますよ」と

 メールが来たので更新してみます。

 

 7年以上前に不在者財産管理人に選任されて、継続してきた案件。

 親族の意向もあり、失踪宣告の申立てをしました。

 管理人が申立人になれるのですが、

 ちょっと抵抗はありました。

 失踪宣告が確定すれば死亡とみなされるので。。

 ただ、最初に「7年たったら失踪宣告を申し立てる」という

 方針だったことと、年金を受給し続けていたので、

 まずは親族に申立人になってもらおうと思い、連絡を

 とりましたが、なかなか難航し、結局私が申立人になりました。

 

 失踪宣告の申立て自体が初めての経験だったので、適当な感じの

 申立書だったらしく、家庭裁判所から、「こんなんじゃだめ」と

 補正の連絡がきて、申立書とは別に「報告書」を提出。

 

 その後、だいぶ日数が経って、申立てから約10か月後に審判。

 審判が確定したら、10日以内に戸籍の届け出をしなければなりません。

 そしてできあがった戸籍を見て、衝撃だったのが、申立人の名前が

 記載されていたことです。当然と言えば当然なのですが、

 見ず知らずの方の戸籍に名前が載るというのは、あらためて

 やはり衝撃的です。

 

 ところで、失踪した不在者の年金は受給し続けていいものなのか?

 選任当初、年金事務所に確認したところ

 「行方不明になったからといって、年金は止めません」との返事。

 ただし、現況届の用紙が送られてきたのに提出しない場合は

 一時支給が停止されます。

 本来は「ここに住んで、生存しているので、年金の受給権があります」

 という届出なのですが、不在者財産管理人の届け出が年金事務所にできるので

 不在者でも年金は受給できるということです。

 逆に、管理人が自発的に年金の支給を差し止めることはできないそうです。

 ということで、年金を受給していたのですが、

 失踪宣告が確定すると、「不在者の生死が不明になってから7年間が満了した日」に

 死亡したものとみなされます。

 ちなみに失踪宣告の審判書に、その生死不明となった始期が記載されているので

 そこから自分で計算して、「死亡とみなされる年月日」を届出書に記載するのですが

 これがちょっとドキドキしました。

 この日付は、審判書には書いておらず、裁判所からの文書にも一切書いていません。

 本当にこれで計算が合っているのか、、、と不安になりながら届出をしました。

 この年月日が実はくせもので、確定日よりもだいぶ遡ることになります。

 ほぼ、申立て時の頃なわけです。

 何が言いたいかと言うと、年金の過払いが発生するということなのです。

 

 年金は、死亡後に振り込まれたものは大抵返納対象になります。

 そして、それは年金事務所に死亡届を出してから

 3~4か月後に請求書がくることになっています。

 

 今回、年金事務所に死亡届を提出しに行って、確認したところ、

 11ヶ月分が返納になると言われました。

 そして、その「返納方法申出書」は、死亡届出人が書くことになっています。

 今回、私が死亡届を出しに行ってしまったので、私が返納しなければなりません。

 死亡届も親族に出してもらえばよかったのですが、そうなると返納額がまた

 増えていくことになるので、早く止めたほうがいいだろうと考えた次第です。

 

 一方、管理人としては、最後に財産を相続人に引き渡して、裁判所に

 報告書を提出しなければいけません。

 なので、年金事務所で返納金額を計算してもらい、その分を差し引いて

 相続人に引き渡し、一回報告し、年金の返納が終わったら再度報告して

 終了という形にしようと思います。

 

 約8年くらい継続していた中で、色々なことが起こりましたが、

 色々と勉強になりました。

2020年6月22日 (月)

息子の不登校 その後

 6月1日から学校に行き始めた息子。

 始めの2日間は保健室、その後いわゆる「別室登校」で

 学習室のような部屋で、ほかの2人くらいの子と一緒に

 勉強したり体育をしたりするようになった。

 2週間目から給食を食べて、6時間目までいるようになり

 そんなに飛ばして大丈夫かな?と思ったころ、

 筋肉痛がひどいからと言って、金曜に一日休んだ。

 その次の週はまた行くようになって、今度は

 筋肉痛ではない足の痛みで歩くのもひどいと言って

 病院に行ったら、踵と膝に炎症が起きていた。

 痛みのせいか、疲れたのか、木曜に休んだ。

 その後また金曜は行ったけれど、今朝は起きられなかった。

 3週間、毎日同じ時間に起きれていたので、休むかどうかは

 別として、なんとなく安心していたけれど、今日は

 なんだか私がもやもやしてしまった。

 今まで、1年半も行かないことを肯定してきたのだし、

 学校に行き始めた時も、「一日おきとかでいいのに」と

 思ったものだが、なぜ今日はもやもやしたのか。。

 考えたら、朝起きない→行くのかどうか決まらない、ということが

 私としてはイライラしてしまう原因かなと思った。

 あと、「起きられない」毎日がまた始まってしまうのか、

 という不安だ。

 昨日の夜、「出席日数のために学校に行ってるんだ」と

 言っていたので、「6時間目までいなくてもいいんじゃない?」と

 言ってみたが、本人は、そういう加減ができないのかもしれない。

 まぁ、3歩進んで1歩下がるって感じかな。。。

 疲れたら、休めばいいよね。

 と、自分に言い聞かせる。

 

2020年6月15日 (月)

不登校の息子の話

 現在中学3年の我が家の三男は、

中学1年の夏休み明けから、学校に行けなくなった。

学校に行かなかった期間は1年と7ヶ月。2年の時は

丸々一度も行っていない。

 ところが、今月からほぼ毎日行くようになった。

 まだこれからどうなるか、わからないけど、備忘録的に

ここまでのことを書いてみようと思う。

 長くなりますが。。。

 

<始まり~中1夏休み明け>

 休み明けに宿題が終わっていた試しがない息子は、

毎年確かに行き渋ってはいたけれど、小6では皆勤賞で、

雨が降ったりして「行きたくない」と言う日はあっても

実際に行かない日はなかった。

 その日も朝からぐずぐずして、宿題が終わっていないため

出かけるのも遅くなったので、私が車で送っていった。

 校門の前で降ろして、私はそのまま仕事に出かけた。

 息子がその日、登校しなかったことを聞いたのは、

夕方かかってきた担任の先生からの電話でだった。

 息子に聞くと、校門からUターンして家に帰ったと言う。

もちろんびっくりしたけれど、聞いても返事をしないので

その日は話もできなかった。

 翌日の朝、息子を起こして学校に行くように

声をかけたところ、急にわんわん声をあげて泣き出した。

「今までずっと苦しかったんだよ!」と言って。

「学校には行きたくない」と。

 何か、いじめとか、嫌なことがあったのか、

「苦しい」の理由をなんとか聞き出そうと思った。

部活が嫌なのか?宿題が終わっていないからか?

友達と喧嘩したのか?先生に怒られたのか?

でも、何も聞けなかった。布団をかぶって、拒否をする。

 こんなふうに、自分の気持ちをぶつけるのは初めてだなと

思った私は、それから学校に行きなさいとは言わなくなった。

 

 小学生の頃にADHDと診断され、学校生活でも色々と

うまくできないことが多かった。

 忘れ物はしょっちゅう、門限の時間も忘れるのは当たり前、

計画を立てられない、衝動性が強いので我慢がきかない、

そしてこれはADHDとは関係ないかもしれないけど、

朝が苦手で起きられない。

 そのほか、皮膚感覚などが敏感で、痛みを感じやすく、

それが精神的にも(例えば言葉に敏感で傷つきやすい)

影響し、人間関係がうまく築けなかったのだと思う。

 それでも中学に入ってからは、部活も頑張って、

勉強もそれなりに頑張っていた。ように見えていた。

 

 それが頑張りすぎていたのかな。

 私の仕事が忙しく、話をちゃんと聞いてあげられなかった

のかな。

 父親との関係が悪く、いつも怒鳴られていて、

心が折れちゃったのかな。

 本当はいじめられていたのかな。

 

 色々色々考えて、でもどうして行けないのか、

わからなくて、どうしたいのかもわからなくて、

どうすればいいのかもわからなくて、悩んだけど、

本人も悩んでいるのかもしれないと思い、

死にたくなるくらいなら、生きててくれるだけで

いいやと思うようになった。

 実際に死にたいと思っていたかどうかは

わからないけど、しょっちゅう「生きてるのが疲れる」

と言っていた。

 学校の話や友達の話はしたがらず、ゲーム以外は

何もやる気も起きないようだった。

 

 ADHDの診断をしてもらった先生のところに

定期的に診察に行っていて、そこには嫌がらずに

行けていたので、そこで先生と話をすることが

私にとっては心の支えだった。

 息子は一時は「先生に何か聞かれる」ことを

苦痛に思っていたようだけど、だいたいは、

話ができることで、息子も落ち着いていたように

思える。

 

 学校に行かないことでの当初の心配は、学力の

ことだったが、ちょうど中1の夏休みから、家庭教師

の先生に来てもらっていたので、最低限の英語と数学は

勉強を続けることができた。

 

 息子はとにかく毎日、友達とオンラインで会話しながら

ゲームをしていた。不登校の隣の中学の友達がいて、

その子ともう一人(この子も隣の中学)と3人で

いつもゲームをしている。たまに、映画を見に行ったり

遊びに行ったりして、仲良くしていたので、あまり

孤独ではなかったと思う。

 引きこもり、というのでもなく、買い物に行ったり、

映画に行ったりはするし、家の中でも部屋に閉じこもる

と言うわけでもない。

 私とは一緒にテレビを見たり、話もよくした。

 

 最初の半年くらいは、「ゲーム依存症」かと思い、

ゲームをやめれば、また学校に行けるのではないか、

と思っていたこともある。専門医を探したりもした。

 でも、段々と、そうじゃないことがわかってきた。

 そのことがわかるのに、1年以上かかったけれど。

 

 子どもが自分の思うような行動をしないからと言って、

何か強制的にやらせようと思っても無理なことは

自分の子どもの時のことを思えば、わかっていた。

 嫌ならば、いくらでも嘘をついたりして、自分の

気持ちに忠実に生きようとする。親なんていくらでも

騙せる。無理強いしても、いいことなんて一つもないと

思っている。

 でも、ほかの家族も同じ考えではないので、最初は

「あんたが甘やかすから」とかなり批判されたし、

夫も学校に行かない息子にイライラしていた。

長男、次男も、なぜ三男にだけ甘いのか、

自分たちは厳しくされたと、私に文句を言った。

 それでも、私は黙って見守ることにしたのだ。

 基本的に「学校に行った方がいい」とは言わない。

 毎日毎日、気持ちは揺れ動くし、本当にそれで

いいのかと不安になることも多かったけれど、

それこそ会う人会う人に息子の話をして、助言を

もらう中で「それは行かせなきゃだめだよ」と

言った人はいなかった。もちろん全部が本音ではないにせよ。

 だから息子にも「学校には行かなくていいよ」と言った。

「学校に行かなくても、生きていけるから」と。

 

 学校には行かなくていいけど、違うところには

行った方がいいのでは?という時期もあった。

フリースクールや、家庭教師ではなく、塾に通うとか。

 でもそれは息子にことごとく拒否された。

 

 「まだ、エネルギーが足りていないのかも」と

言われたことがあって、それが私には一番しっくり

きたけれど、本人の気持ちが動かなければ、何を

言っても響かないなと思ってから、出席日数を

気にするのもやめてしまった。

 

 学校に行ってなくても、どうにでもなってる人を

たくさん知っていることも、私には心強かった。

 大丈夫と言う気持ちと、息子を信じたい気持ち、

だけど本当にいつかその日が来るの?という気持ち、

そんな日は一生来なくて、このまま引きこもりに

なって大人になってしまうのではないか、という

恐怖と、色々な気持ちとの闘いだった。

 

 1年の時の担任の先生は、時々家に来て、プリントを

渡してくれたり、色々と声かけをしてくれた。

 1年の終わりに、3年生の予餞会があって、それに

来てみたら?と言ってくれたのだが、息子は私には

言わないで、登校した。その後も1回くらい、いつの間にか

登校していて、それを私が大げさに言うのが嫌だったらしく

「母ちゃんに言うとうるさいから」と言っていた。

 これを機に、学校に行くのかな?と思い、息子に聞くと

あまりはっきり返事はしないけれど、4月から、という

切りのいいところで、行けたらいいなと思っているような

感じだったので、小さくなった上靴を買い、制服を直して

新学期の初日を迎えた。

 

 でも、結局行けなかった。

 

<2年目>

 

 2年になるとクラスも変わり、クラスメイトも担任も

変わってしまい、完全に行く気がしなくなったようだった。

 担任の先生は、最初のうちは何回か家にきたけれど、

あまり話をするということでもなく、その後夏休み後には

ぱったりと連絡も来なくなった。

 

 一年以上、お昼ごろ起きてゲームをして、

家庭教師の先生とはちょっと勉強して、また

夜中にゲームして、という毎日。

 だんだんと、お風呂にも入らなくなり、歯磨きも

一年くらいしていなかった。

 私の心配は、学校のことよりも、息子の体調と

体力のことに比重が変わっていった。

 

 年に1,2回、私の旅行についてきて、去年は

台湾と、大阪USJに行ったのだが、体力がついて

いかず、ほとんど歩けない、すぐに座り込む、

途中で具合が悪くなる、という状態で、

日を追うごとに体力が落ちていくのがわかった。

 

 中2の終わりごろに、家庭教師の先生との話で

「高校には行ってみたい」と言うようになった。

 

 高校に行きたいのはいいけど、このままでは

体力が追い付かないから、すぐにまた行けなくなる

のでは、、と心配になった。

 

 それでも、家庭教師の先生の声掛けで、前向きに

高校進学のことを考えられるようになったと思う。

 そして、先生が「中学校には行きたいか、行きたくないか」

と質問してくれた。

 それに対して、「学校に行くのが嫌なわけではなくて

人に会いたくない」と答えたのだそうだ。

 なので、保健室とか別室登校ならいいのでは?と

先生が教えてくれた。

 そして、また切りのいい新学期が始まった。

 

<3年生になって>

 

 新学期が始まったはずだった。

 学校の先生が新型コロナに感染し、

始業式が大幅に遅れると連絡があってから、

緊急事態宣言となり、ほかの学校もすべて

授業がストップすることになった。

 4月から学校に行く必要がなくなったのだ。

 みんなも行っていないのだから、と気が楽に

なったわけでもないだろうが、とにかく学校は休み。

 その間、教科書を買いに学校に行ったときに

あたらしく担任になった先生に、別室登校の話をした。

 学校では、少なくともクラスに一人は不登校の子が

いて、別室対応もしているはずだと思ったのだが、

やはり先生も対応は可能だといってくれて、方法に

ついて検討してくれることになった。

 その後、登校日が何日かあったのだが、息子が

行かないと、先生が家に来てくれて、声掛けをしてくれた。

 

 休みの間は変わらずゲームをしていたが、

ゲームのアップデート等も、コロナの影響で

なかなか更新されず、楽しみにしていた映画も

公開延期になり、暇でやることがない、と言うようになった。

何か、趣味がほしい。

やること、ないかな~、と。

 4月の時点では、まったく学校に行く気配はなかった。

 制服も直す気にもならず、話したがらなかった。

 

 5月のある日「先生がプリント取りに来てっていうから

行くことになった」と息子が言って、明日学校に

行くと言う。「行って帰ってくるだけ」と。

 まだ本格的に登校が始まっていない、分散登校の

日であった。指定された時間に、送っていくことにした。

 すると、また次回の登校日に行くと言う。

 同じように、送っていき、帰りは本人が歩いて

帰ってきた。

 行ったときに先生と話したらしく、

「毎日プリント取りに行って、すぐ帰ってきても

出席になるんだって。」と言って、毎日行くと言い出した。

 高校進学の話で、「出席日数が足りない」という自覚を

今更ながらにしたようだ。

 6月から毎日通常登校が始まると同時に、息子も毎日

学校に行くようになった。

 始めは保健室登校で、2日くらい、保健の先生の手伝い

をしたりして帰ってきたが、その後別室登校となり、

他の子2人くらいと一緒の教室で、それぞれの時間に

空いてる先生が回ってきて授業を行うという。

 そのうち給食が本格的に始まったら、給食を食べて

6時間目が終わるまで学校にいる、ということが

できるようになった。

 体育の授業もあり、これが一番きついようで、

毎日筋肉痛で歩けない日もあり、一日休んだが

また毎日「送って行って」と言い、朝起きる。

 最初は本当に私も、行って帰ってくるだけが

ずっと続くと思っていたのに、なんでこんなに

極端なのかなと、かえって心配になる。

 

 学校に行くようになると、身だしなみにも気を付ける

ようになり、毎日風呂に入って、歯磨きもする。

 朝も頑張って起きる。

 筋肉痛が治らないと言っては、腹筋をしたり

腕立て伏せをしたりする。

 土日になると、「やることなくて退屈だな」と言う。

 ゲームは変わらずやっていて、友達と大騒ぎしながら

やっているし、時にはなかなかやめられず、私に

何回も「もう時間だよ」と言われて逆切れし

「くそ!死ね!」「黙っとけ!」などと

暴言を吐くことも多々あるのだが、

毎日、かなり前向きな様子である。

 

 何がどうなって、こうなったのか?

 色々なことや色々なタイミングが重なって、

自分から動く気持ちになれたのだと思うけれど、

家庭教師の先生や、クリニックの先生や、

新しい担任の先生のおかげでもあると思い、

本当に感謝している。

 私も、黙って見守るなんてカッコいいこと言って、

その実ただ放置していただけじゃないかなとも

思えるし、何が正しくて、何が間違いで、

この1年7ヶ月が良かったのか悪かったのかも

わからない。

 その間、「学校に行くこと」が正しいこととも

思えない、とも考えていたのに、いざ行くように

なったら「行けてよかった」と思ってしまうのは

どうなんだって思ったりもするけれど、息子が

何かに自分から取り組んでいる、ということは

紛れもなく嬉しいことだし、いいことなので、

息子には必要な休息期間だったのかもしれない。

 

 またこれから、何が起こるかわからないけど、

ゆっくり歩いていく息子を見守っていこう。

 

 

2019年3月 7日 (木)

復興がもたらすもの

 もうすぐ8年、、、と言う言葉がやたらと目につく今日この頃。

 私自身は、〇年と毎年毎年数えることに、何の意味があるのかなと

思ってしまいますが、大事に思っている方もいらっしゃるでしょうね。

 先日、久しぶりに閖上のほうに車で行きました。

 私の家から、名取方面に行くのに、よく海岸沿いを通っていく

のですが、その道路沿いに防潮堤ができていました。




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