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2022年5月23日 (月)

怪我は突然に

 怪我は突然やってきます。

 当たり前といえば当たり前です。

 でも、実際怪我をしてしまうと、

 「なぜこんなことに、、、、。」と

 誰もが思いますよね。


 土曜日に自宅のお風呂掃除をして、窓を開けておき、

 その夜、風呂に入った私は、窓の鍵が開いているのを見て、

 母が戸だけを閉めたのだなと思い、鍵を閉めようと思いました。

 ところで我が家のお風呂は、以前はだだっ広いタイル貼りの

 浴室だったのですが、震災後、ユニットバスにリフォームしました。

 その際、サイズに合うユニットがなく、少し小さいものを入れたので

 もともとの浴室の壁とユニットバスとの間に空洞?ができたんです。

 でも、もともとの窓を活かしているので、

 中から見ると、窓の部分が出窓のようになっていて、

 その奥行きが1メートルくらいあります。

 外から見ても出窓にはなっていません。

 その窓の鍵を中から閉めるには、浴槽のふちに乗らなければ

 届きませんので、いつも上って閉めています。

 なので、いつものように上って閉めようとしました。

 一瞬何が起きたのかわかりませんでしたが、気が付いたら

 私は、風呂のフタとともに浴槽の中に立っていて、

 裸でわき腹を押さえ、今まで出したことのない声を

 出しておりました。

 足を滑らせて?わき腹を角の出っ張りに打ち付けた模様。

 強さ的には、直角に出っ張っているところに、

 脇から落とされたくらいの勢いですね、たぶん。

 今まで経験したことのない痛さというか、衝撃。

 息ができない時間が1分くらいあったはず。

 そのあとも、さっぱり痛みはとれず、その日は寝返りも

 打てないほどでした。

 もしかしたら肋骨にひびが入っているかもしれませんが、

 病院にいったところでどうしようもないので、そのまま

 放置しています。

 やっとぎっくり腰が良くなったと思ったら、今度は肋骨。

 これも老化なのでしょうか。。。

 思い出すと何回も笑ってしまうので、

 みなさんも笑ってください。いや、気を付けてくださいね。

2021年8月13日 (金)

お盆ですが・・・

 お盆に入りましたが、コロナの感染状況を鑑みて

 今年はお墓参りは見合わせました結果、地味に仕事をしています。


 先日、私が後見人を務めていたご高齢の被後見人が

 お亡くなりになって、葬儀関係の手配のお手伝いをしました。

 もう何回も経験しているので、葬儀関係やお墓・お寺のことも

 少し詳しくなりました。


 ご親族はどうしても、夜中に呼び出されたりしてパニック状態、

 とまではいかないにせよ、心が乱れており、なかなかスムーズに

 色々なことが進められないことが多いので、私のような第三者が

 ある程度仕切らせていただく方がいいこともあります。

 が、場合によりけりです。でしゃばらないほうがいいことも

 多々あります。


 見極めは難しいですけれど。。。


 そんな中、自分のお墓を購入しました。

 いわゆる樹木葬というやつですが、

 一本の木の下に眠る、、、というイメージとは全然ちがう、

 どちらかというと、公園墓地みたいな感じです。

 入る人が誰もいなくなった後の管理料がかからず、

 ペットも一緒に入れる、しかも何人でも入れる、という

 家族版の共同墓ですね。

 うちの両親もそこに入って、祖父母の入っている墓は

 墓じまいすると言っています。

 子どもたちに負担をかけたくないので、あとは子どもたちが

 好きにすればいいかなと思っています。Img_3113_20210813185601

 

2020年9月29日 (火)

「親に頼れない」学生の困窮問題

 ブログを長々書きながら、自分の頭を整理しているので
それを読まされている方にしてみたら迷惑かもしれないけれど、
今日もそんなまとまりのない話です。

 私のところには、様々な事情を抱えながら「親には頼れない」
若者が相談に来る。働いている子もいれば、学生もいる。

 先日、専門学校に入ったばかりの18歳の女の子が相談にきた。
詳しい事情は書けないが、私も色々なアドバイスをしたり、
とりあえずの食料等の支援をしたりして、話をきいていたのだが、
本人がお金の苦労をするのに疲れてしまったらしく、とうとう
学校はやめて一旦実家に帰ることにしました、という報告があった。

 親に学費を出してもらえない子は、ほとんどが学生支援機構から
奨学金をもらって(あるいは借りて)賄っていると思うが、
学生支援機構も、窓口になる学校(進学後の大学や専門学校)も、
「奨学金の当事者は学生本人なので、本人から相談させてください」
と言って、たとえ後見人であろうと他者は直接交渉はさせてくれない。
 確かに、当事者は学生で、本人の責任でお金を受け取ることになる。
それは間違いではないけれど、入学してすぐにインターネットで申請する
内容に間違いがないのかどうか、その子の事情を勘案してチェックしてくれる
機関がないので、本人が間違った情報で申請してしまうこともある。
 また本人がどれくらい、そこに書かれている内容を理解し、言葉の意味を
わかって回答しているのか、そこも学校では丁寧にチェックしてくれない。
 結果、実態とは異なった内容で申請が行われ、本来受けられるものが
受け取れないでしまうことも多々ある。

 先に書いた女の子も、本来であれば受けられた国の助成制度を受けられず
困窮していた。
 また、以前別の学生も、申請する際の住所についての認識が間違っていて
支給される金額が減額されていた例もある。

 学校現場においては、「親の支援を受けずに進学する」子は少数で、
もちろん理解のある先生やSSWなどに相談できれば、なんとか支援につながる
場合もあるのだが、「親がいるんだからまずは親に頼りなさい」と言うのでは
そこで関係性がシャットアウトされてしまう。

 「進学するくらいなのだから、親がお金を出しているのだろう」との推測は
間違っていないこともあるかもしれないが、親には頼れない子にしてみれば、
「誰も理解してくれない」との思いを抱くことになる。そのようなデリケートな
事情は友達にも相談できず、かといってどこに相談すればいいのかもわからず、
悩んでしまうことが多い。

 学校を辞める、しかも嫌だった親の元に帰るという選択は苦渋の決断だったと
思うが、未成年でお金の苦労をしながら、勉強もしてバイトもして、というのは
本当に覚悟がないとできない生活だ。

 最近は給付型の奨学金も多く準備されているけれど、貸与型の借金を
卒業後に返還しなければならないというプレッシャーも本人にとっては
辛く苦しいものになる。このコロナ禍で、返還猶予の申し出も増えている
と思う。
 そのような多額の借金を背負う手続きなのに、高校生にすべて理解しろと
言うのは無理がある。もちろん個人差があるので、一人で完璧に手続き
できる子もいるかもしれないが、例えば勉強はできても、そういう手続きとか
お金の計算とかは苦手だったり、社会経験がない分理解力に乏しい子が
圧倒的に多いはずだ。
 なんとか、学生一人一人に寄り添って手続きができるような体制ができない
ものなのか、もんもんとしてしまう。
 成年年齢が18歳になったらなおさら、成人として扱われ、契約時の失敗は
許されない。
 本来、時間をかけて説明し、丁寧に進めるべき手続きが、進学時のバタバタと
ともに流れて行ってしまい、本人も自覚がないまま契約していることになる。
本人は「契約」している実感もないままにだ。

 毎年毎年、少数ではあるが、確実に困っている学生が存在している。
 その事実を、機構にも、学校にも、社会にも、知ってもらいたい。

2020年6月15日 (月)

不登校の息子の話

 現在中学3年の我が家の三男は、

中学1年の夏休み明けから、学校に行けなくなった。

学校に行かなかった期間は1年と7ヶ月。2年の時は

丸々一度も行っていない。

 ところが、今月からほぼ毎日行くようになった。

 まだこれからどうなるか、わからないけど、備忘録的に

ここまでのことを書いてみようと思う。

 長くなりますが。。。

 

<始まり~中1夏休み明け>

 休み明けに宿題が終わっていた試しがない息子は、

毎年確かに行き渋ってはいたけれど、小6では皆勤賞で、

雨が降ったりして「行きたくない」と言う日はあっても

実際に行かない日はなかった。

 その日も朝からぐずぐずして、宿題が終わっていないため

出かけるのも遅くなったので、私が車で送っていった。

 校門の前で降ろして、私はそのまま仕事に出かけた。

 息子がその日、登校しなかったことを聞いたのは、

夕方かかってきた担任の先生からの電話でだった。

 息子に聞くと、校門からUターンして家に帰ったと言う。

もちろんびっくりしたけれど、聞いても返事をしないので

その日は話もできなかった。

 翌日の朝、息子を起こして学校に行くように

声をかけたところ、急にわんわん声をあげて泣き出した。

「今までずっと苦しかったんだよ!」と言って。

「学校には行きたくない」と。

 何か、いじめとか、嫌なことがあったのか、

「苦しい」の理由をなんとか聞き出そうと思った。

部活が嫌なのか?宿題が終わっていないからか?

友達と喧嘩したのか?先生に怒られたのか?

でも、何も聞けなかった。布団をかぶって、拒否をする。

 こんなふうに、自分の気持ちをぶつけるのは初めてだなと

思った私は、それから学校に行きなさいとは言わなくなった。

 

 小学生の頃にADHDと診断され、学校生活でも色々と

うまくできないことが多かった。

 忘れ物はしょっちゅう、門限の時間も忘れるのは当たり前、

計画を立てられない、衝動性が強いので我慢がきかない、

そしてこれはADHDとは関係ないかもしれないけど、

朝が苦手で起きられない。

 そのほか、皮膚感覚などが敏感で、痛みを感じやすく、

それが精神的にも(例えば言葉に敏感で傷つきやすい)

影響し、人間関係がうまく築けなかったのだと思う。

 それでも中学に入ってからは、部活も頑張って、

勉強もそれなりに頑張っていた。ように見えていた。

 

 それが頑張りすぎていたのかな。

 私の仕事が忙しく、話をちゃんと聞いてあげられなかった

のかな。

 父親との関係が悪く、いつも怒鳴られていて、

心が折れちゃったのかな。

 本当はいじめられていたのかな。

 

 色々色々考えて、でもどうして行けないのか、

わからなくて、どうしたいのかもわからなくて、

どうすればいいのかもわからなくて、悩んだけど、

本人も悩んでいるのかもしれないと思い、

死にたくなるくらいなら、生きててくれるだけで

いいやと思うようになった。

 実際に死にたいと思っていたかどうかは

わからないけど、しょっちゅう「生きてるのが疲れる」

と言っていた。

 学校の話や友達の話はしたがらず、ゲーム以外は

何もやる気も起きないようだった。

 

 ADHDの診断をしてもらった先生のところに

定期的に診察に行っていて、そこには嫌がらずに

行けていたので、そこで先生と話をすることが

私にとっては心の支えだった。

 息子は一時は「先生に何か聞かれる」ことを

苦痛に思っていたようだけど、だいたいは、

話ができることで、息子も落ち着いていたように

思える。

 

 学校に行かないことでの当初の心配は、学力の

ことだったが、ちょうど中1の夏休みから、家庭教師

の先生に来てもらっていたので、最低限の英語と数学は

勉強を続けることができた。

 

 息子はとにかく毎日、友達とオンラインで会話しながら

ゲームをしていた。不登校の隣の中学の友達がいて、

その子ともう一人(この子も隣の中学)と3人で

いつもゲームをしている。たまに、映画を見に行ったり

遊びに行ったりして、仲良くしていたので、あまり

孤独ではなかったと思う。

 引きこもり、というのでもなく、買い物に行ったり、

映画に行ったりはするし、家の中でも部屋に閉じこもる

と言うわけでもない。

 私とは一緒にテレビを見たり、話もよくした。

 

 最初の半年くらいは、「ゲーム依存症」かと思い、

ゲームをやめれば、また学校に行けるのではないか、

と思っていたこともある。専門医を探したりもした。

 でも、段々と、そうじゃないことがわかってきた。

 そのことがわかるのに、1年以上かかったけれど。

 

 子どもが自分の思うような行動をしないからと言って、

何か強制的にやらせようと思っても無理なことは

自分の子どもの時のことを思えば、わかっていた。

 嫌ならば、いくらでも嘘をついたりして、自分の

気持ちに忠実に生きようとする。親なんていくらでも

騙せる。無理強いしても、いいことなんて一つもないと

思っている。

 でも、ほかの家族も同じ考えではないので、最初は

「あんたが甘やかすから」とかなり批判されたし、

夫も学校に行かない息子にイライラしていた。

長男、次男も、なぜ三男にだけ甘いのか、

自分たちは厳しくされたと、私に文句を言った。

 それでも、私は黙って見守ることにしたのだ。

 基本的に「学校に行った方がいい」とは言わない。

 毎日毎日、気持ちは揺れ動くし、本当にそれで

いいのかと不安になることも多かったけれど、

それこそ会う人会う人に息子の話をして、助言を

もらう中で「それは行かせなきゃだめだよ」と

言った人はいなかった。もちろん全部が本音ではないにせよ。

 だから息子にも「学校には行かなくていいよ」と言った。

「学校に行かなくても、生きていけるから」と。

 

 学校には行かなくていいけど、違うところには

行った方がいいのでは?という時期もあった。

フリースクールや、家庭教師ではなく、塾に通うとか。

 でもそれは息子にことごとく拒否された。

 

 「まだ、エネルギーが足りていないのかも」と

言われたことがあって、それが私には一番しっくり

きたけれど、本人の気持ちが動かなければ、何を

言っても響かないなと思ってから、出席日数を

気にするのもやめてしまった。

 

 学校に行ってなくても、どうにでもなってる人を

たくさん知っていることも、私には心強かった。

 大丈夫と言う気持ちと、息子を信じたい気持ち、

だけど本当にいつかその日が来るの?という気持ち、

そんな日は一生来なくて、このまま引きこもりに

なって大人になってしまうのではないか、という

恐怖と、色々な気持ちとの闘いだった。

 

 1年の時の担任の先生は、時々家に来て、プリントを

渡してくれたり、色々と声かけをしてくれた。

 1年の終わりに、3年生の予餞会があって、それに

来てみたら?と言ってくれたのだが、息子は私には

言わないで、登校した。その後も1回くらい、いつの間にか

登校していて、それを私が大げさに言うのが嫌だったらしく

「母ちゃんに言うとうるさいから」と言っていた。

 これを機に、学校に行くのかな?と思い、息子に聞くと

あまりはっきり返事はしないけれど、4月から、という

切りのいいところで、行けたらいいなと思っているような

感じだったので、小さくなった上靴を買い、制服を直して

新学期の初日を迎えた。

 

 でも、結局行けなかった。

 

<2年目>

 

 2年になるとクラスも変わり、クラスメイトも担任も

変わってしまい、完全に行く気がしなくなったようだった。

 担任の先生は、最初のうちは何回か家にきたけれど、

あまり話をするということでもなく、その後夏休み後には

ぱったりと連絡も来なくなった。

 

 一年以上、お昼ごろ起きてゲームをして、

家庭教師の先生とはちょっと勉強して、また

夜中にゲームして、という毎日。

 だんだんと、お風呂にも入らなくなり、歯磨きも

一年くらいしていなかった。

 私の心配は、学校のことよりも、息子の体調と

体力のことに比重が変わっていった。

 

 年に1,2回、私の旅行についてきて、去年は

台湾と、大阪USJに行ったのだが、体力がついて

いかず、ほとんど歩けない、すぐに座り込む、

途中で具合が悪くなる、という状態で、

日を追うごとに体力が落ちていくのがわかった。

 

 中2の終わりごろに、家庭教師の先生との話で

「高校には行ってみたい」と言うようになった。

 

 高校に行きたいのはいいけど、このままでは

体力が追い付かないから、すぐにまた行けなくなる

のでは、、と心配になった。

 

 それでも、家庭教師の先生の声掛けで、前向きに

高校進学のことを考えられるようになったと思う。

 そして、先生が「中学校には行きたいか、行きたくないか」

と質問してくれた。

 それに対して、「学校に行くのが嫌なわけではなくて

人に会いたくない」と答えたのだそうだ。

 なので、保健室とか別室登校ならいいのでは?と

先生が教えてくれた。

 そして、また切りのいい新学期が始まった。

 

<3年生になって>

 

 新学期が始まったはずだった。

 学校の先生が新型コロナに感染し、

始業式が大幅に遅れると連絡があってから、

緊急事態宣言となり、ほかの学校もすべて

授業がストップすることになった。

 4月から学校に行く必要がなくなったのだ。

 みんなも行っていないのだから、と気が楽に

なったわけでもないだろうが、とにかく学校は休み。

 その間、教科書を買いに学校に行ったときに

あたらしく担任になった先生に、別室登校の話をした。

 学校では、少なくともクラスに一人は不登校の子が

いて、別室対応もしているはずだと思ったのだが、

やはり先生も対応は可能だといってくれて、方法に

ついて検討してくれることになった。

 その後、登校日が何日かあったのだが、息子が

行かないと、先生が家に来てくれて、声掛けをしてくれた。

 

 休みの間は変わらずゲームをしていたが、

ゲームのアップデート等も、コロナの影響で

なかなか更新されず、楽しみにしていた映画も

公開延期になり、暇でやることがない、と言うようになった。

何か、趣味がほしい。

やること、ないかな~、と。

 4月の時点では、まったく学校に行く気配はなかった。

 制服も直す気にもならず、話したがらなかった。

 

 5月のある日「先生がプリント取りに来てっていうから

行くことになった」と息子が言って、明日学校に

行くと言う。「行って帰ってくるだけ」と。

 まだ本格的に登校が始まっていない、分散登校の

日であった。指定された時間に、送っていくことにした。

 すると、また次回の登校日に行くと言う。

 同じように、送っていき、帰りは本人が歩いて

帰ってきた。

 行ったときに先生と話したらしく、

「毎日プリント取りに行って、すぐ帰ってきても

出席になるんだって。」と言って、毎日行くと言い出した。

 高校進学の話で、「出席日数が足りない」という自覚を

今更ながらにしたようだ。

 6月から毎日通常登校が始まると同時に、息子も毎日

学校に行くようになった。

 始めは保健室登校で、2日くらい、保健の先生の手伝い

をしたりして帰ってきたが、その後別室登校となり、

他の子2人くらいと一緒の教室で、それぞれの時間に

空いてる先生が回ってきて授業を行うという。

 そのうち給食が本格的に始まったら、給食を食べて

6時間目が終わるまで学校にいる、ということが

できるようになった。

 体育の授業もあり、これが一番きついようで、

毎日筋肉痛で歩けない日もあり、一日休んだが

また毎日「送って行って」と言い、朝起きる。

 最初は本当に私も、行って帰ってくるだけが

ずっと続くと思っていたのに、なんでこんなに

極端なのかなと、かえって心配になる。

 

 学校に行くようになると、身だしなみにも気を付ける

ようになり、毎日風呂に入って、歯磨きもする。

 朝も頑張って起きる。

 筋肉痛が治らないと言っては、腹筋をしたり

腕立て伏せをしたりする。

 土日になると、「やることなくて退屈だな」と言う。

 ゲームは変わらずやっていて、友達と大騒ぎしながら

やっているし、時にはなかなかやめられず、私に

何回も「もう時間だよ」と言われて逆切れし

「くそ!死ね!」「黙っとけ!」などと

暴言を吐くことも多々あるのだが、

毎日、かなり前向きな様子である。

 

 何がどうなって、こうなったのか?

 色々なことや色々なタイミングが重なって、

自分から動く気持ちになれたのだと思うけれど、

家庭教師の先生や、クリニックの先生や、

新しい担任の先生のおかげでもあると思い、

本当に感謝している。

 私も、黙って見守るなんてカッコいいこと言って、

その実ただ放置していただけじゃないかなとも

思えるし、何が正しくて、何が間違いで、

この1年7ヶ月が良かったのか悪かったのかも

わからない。

 その間、「学校に行くこと」が正しいこととも

思えない、とも考えていたのに、いざ行くように

なったら「行けてよかった」と思ってしまうのは

どうなんだって思ったりもするけれど、息子が

何かに自分から取り組んでいる、ということは

紛れもなく嬉しいことだし、いいことなので、

息子には必要な休息期間だったのかもしれない。

 

 またこれから、何が起こるかわからないけど、

ゆっくり歩いていく息子を見守っていこう。

 

 

2019年3月 7日 (木)

復興がもたらすもの

 もうすぐ8年、、、と言う言葉がやたらと目につく今日この頃。

 私自身は、〇年と毎年毎年数えることに、何の意味があるのかなと

思ってしまいますが、大事に思っている方もいらっしゃるでしょうね。

 先日、久しぶりに閖上のほうに車で行きました。

 私の家から、名取方面に行くのに、よく海岸沿いを通っていく

のですが、その道路沿いに防潮堤ができていました。




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2018年8月26日 (日)

「川辺市子のために」「川辺月子のために」

8/25の研修会と前日の会議のために東京に前泊することになり、 急に思い立って金曜の夜に「川辺月子のために」という無戸籍を題材とした お芝居を観に行くことにした。 一人で観に行くつもりだったが、彼女に会いたかったこともあり、 忙しいだろうなとは思ったがダメ元で井戸まさえ女史に連絡したら 「一緒に行こう」と言ってくれた。
まさえ女史は、私の高校の同級生だけど、 仲良くなったのは2011年の高校同窓会以降で、 彼女が取り組んでいた無戸籍者支援の活動を知り、 戸籍の問題といえば司法書士でしょ、と思い いつの間にか私も無戸籍者の支援に携わることになっていった。 ただ、それだけではなく、彼女には、子育てのことや仕事のこと等 共通した悩みごとをなんでも正直に話せて、いつもとても励まされた。 彼女の物の見方や考え方は、私にとってはいつも新しくて、 勇気がでた。 それで、最近ちょっと弱ってる私は、彼女に会いたくなったのだ。
「川辺月子のために」は「川辺市子のために」の続編ということであったが、 観に行くことが決まって、会場に着いて監督さんに会って初めて 「井戸まさえ」をオマージュした人物(2人に分かれてるw)が登場することを知り、 「まさえ」の隣で「まさえ」を観る、しかも行動がそっくりwという貴重な体験をし、 誇らしい気持ちになった。 市子を観なくて月子を観て、物語がわかるかなと心配したけど、 それは大丈夫だったが、俄然、市子も観たくなった。 けど、公演期間中に再度というのは厳しく、断念せざるを得ない。 けど、頭から離れないので、こうしてまた振り返る。 役者さんたちはみなさん若くて、近くで見たら顔が小さくて、 可愛い女性とかっこいい男性ばかりだった。 まさえ女史と一緒だったおかげで、監督さんや役者さんたちと 近しくお話もできて、ものすごく得した気分だった。 先にパンフレットを熟読していれば、内容というか、 登場人物の関係性がわかりやすかったのかもしれないが、 「よくわからない」と感じることも、リアルなのかなと思ったし、 殺人とかが起きてしまうと、「非現実的」に感じるかもしれないが そこもまた、私達には見えていない世界、表には出てこない世界だと 思えば、「あるかもしれない現実」というか、「あるだろうな」と 思ったりもした。 監督さんも役者さんたちも、この無戸籍問題に真摯に向き合って 演じていることがとても伝わってきて、 セリフの一つ一つが胸に刺さるものだった。 司法書士向けの研修会用に、無戸籍当事者のインタビュー動画を 作っているのだけれど、そこで語られる当事者の声は 現実そのもので、当事者の苦悩とか無戸籍の現実がよくわかる ものではあるけれど、ああいう「舞台」で演じられる 役者さんたちの声もまた、いや逆にお芝居の熱のほうが、 他者には響くものなのかもしれない。 9月2日の最終日はすでにチケットが完売していた。 いつの日か、また再演あるいは地方公演など、 期待しつつ。。。。 私の依頼者にも見せてあげたかった。 写真は、パンフレットで、戸田監督と井戸まさえ女史の 対談ページ。

Img01591

2018年7月11日 (水)

緑内障のハナシ

 久しぶりの更新になりました。。。


 先日、数年ぶりに眼科に行ってきました。


 私は40歳の時の健康診断時に眼底検査で

 「緑内障」の疑いありと診断され、その後、眼科で

 正式に緑内障と診断されました。


 その時点で、視野はかけ始めておりましたが、

 自覚症状はまったくなくて、眼圧も正常値でした。

 主治医の話では、眼圧を下げる点眼薬を使う治療しかなく、

 私の場合は正常眼圧なので、そんなに下げる必要もないけど

 これしかないから、差しなさい、ということでした。たしか。

 しばらく真面目に通院し、視野検査も定期的に受けて、

 眼圧も特に変わらなかったけど、視野の欠損もそんなに

 広がらなかったので安心してました。


 それが良くなかったといえば、それまでですが、

 あるとき、予約をしていた日に行けなくなって、その後

 ずるずると行かない日が続き、そのまま数年経ってしまったのです。


 事務所を引っ越して、しばらくして、やっぱり行かないと、、、と

 思ったところ、通院していた眼科が閉院してしまいました。



 その後も、なんとなく、行かなきゃと思い、健康診断の度に

 眼科に行くように言われていたのに、スルーしていました。
 一年前か半年前か、うろ覚えですが、

 ある朝、目が覚めて、横になったままスマホを見るのに

 焦点が合わせ辛かったので、片目をつぶりました。


 すると、あきらかに、左目だけになると、視界が暗くなることに

 気が付きました。


 その後も、時々やってみましたが、やはり暗くなります。


 日中は、ほとんど感じないので、この世は光に満ち溢れている、

 と最近になって思いました。



 数日前に、それほど時間に余裕があったわけでもなかったのですが、

 どうしても行かないといけない気持ちになり、事務所近くの眼科に

 行きました。


 視野検査は予約がないとできませんが、その日に、眼底の写真を

 撮って診てくれました。


 写真を見ながら先生が話してくれるのを聞きながら、

 「これ、、、私の写真なんですか?」と聞いてしまいました。

 とても、自分のこととは思えない結果だったからです。



 「右目の視神経の組織は、通常の10%、左目は1%しか

 残っていない状態です。ホントに薄い膜が残っている感じです。

 写真だと見えないけど。」


 淡々と説明されましたが、私には衝撃でした。


 左目、、、失明寸前なの?


 そして、先生から更に衝撃的な言葉が。
 「正常眼圧の人でも、とにかく今より眼圧を下げます。

 今の2~3割下げていくことが大事です。」



 そうなの?知らなかったよ。。。



 「でも、人生あと40年として、40年もてばいいんだから、

 40年もたせる計画で治療していけば大丈夫です。」
 と、ありがたいお言葉。最初から、この先生だったら。。。

 そう思わずにはいられませんでした。


 ついでに、老眼がひどいから、老眼鏡必要と言われました。。



 本当に、自覚症状がほとんど出ないので、恐い病気です。


 40歳過ぎたら、眼底検査をしてくださいね。

2017年3月15日 (水)

忘却光線

 「スーパーサラリーマン左江内氏」を毎週見ている。

スーパーマンであることを知られてはいけないので、
彼はいつも事件を解決した後に忘却光線を発して
みんなの記憶を消していくのだ。
 私はいつも、自分に忘却光線かけながら生きてるみたい。
 先日、札幌の司法書士の人に震災の時の話をしていて、
自分でももう一回確認してみたくなり、その頃のブログを読み返した。
 依頼者とトラブって、法務局から調査の電話がかかってきた、とあった。
その時はだいぶ落ち込んでいたかに書いているが、どんな内容だったか、
全く思い出せない。
 登記をミスって怒られた、とあった。これも思い出せない。
 
 震災の時のことも、若干記憶と違っていたり、覚えていなかったり。
 忘れることが幸せなこともあるよね。

2015年11月18日 (水)

乳がん検診顛末記

 今年9月7日に受けた乳がん検診で、

要精密検査の結果が出た。

 局所的非対称陰影のカテゴリー3と書かれていて、

何のことやらわからなかったけれど、とにかく精密検査を

受けよとのことなので、健診センターで東北公済病院を

紹介してもらい、11月4日に検査に行った。

 ちなみに、触診では異常なし、自分でもしこりは全然ないと

思えた。

 最初の検診のときには一方向からのマンモ撮影だったので

二方向から撮るとのことで撮影し、そのあと先生の診察へ。

 待合室で一時間以上待たされたので何事かと思ったら

前の順番の人が乳がん宣告されていたようで、もう一か月後に

手術、しかも全摘なら再建希望・・・という先生の声が聞こえてくる。

私もそんなことになったらどうしよう、、という不安で一杯になるも

一方で、全然大丈夫だろうという、能天気な感じだった。

 さて、診察台にあがり、今度は超音波検査をされる。

 やけに念入りに見ているので心配になってきたところ、先生が

「しこりというほどでもないけど、ここに影があるので、細胞を取って

調べます。」と言われ、えっ?と思っている間にそのままの体制で

おっぱいに針がぶすっと刺された。当然、痛い。かなり痛い。

じっと我慢していると、今度は針の先を何やらぐりぐりし始めたので

もう泣きそうである。

 ちなみに終わった後、一週間くらい痛みがあったので、乳がんの

せいで痛いのかと、とても心配になった。

 結果が2週間後に出ると言われ、予約をしてその日は終わり。

 その2週間の間、色々考えなければいけないと思い、乳がんの

手術のことを調べたり、おっぱいのことを色々考えた。

 うちは母が50歳代で乳がんになり、全摘手術をしている。

 幸い、その後の再発もみられず、10年以上経った今も

ピンピンしているが、おっぱいがなくなったことに変わりはなく、

気がしてくる。

 そうやって結果を聞きに行くまで悶々と過ごすことになった。

 そして今日、その日がやってきて、特に前日までに

たとえば「家族を連れてきて」というような連絡もなかったし

大丈夫だろうと思う反面、ここまできて、何ともないわけが

ないのでは、という思いが半分半分。。。

 さらに、また前の順番の人が、何やら結果を聞きに来て

「一人で来たんですか?」と聞かれていて、診察室から出た

後に、色々検査の案内をされていたので、「あぁ、また告知」

と、自分もそれに続くのかという思いで先生の前に座ったが

あっけなく「異常ありませんでしたよ。」と言われた。

 そうか、あんなに痛い思いをしたけど、何ともなかった、

そう思ったら、心底ほっとした。

 普段、体のことはなんでも母には話してきたけど、

今回はさすがに心配させるだけだから、何も言えなかった。

 今度は6か月後に検査して、様子を見ましょうということなので

油断はできないけど、とりあえずおっぱいがなくならなくて、

よかった。。。。

 乳房再建術のことも色々調べたけれど、

もともときれいな形の人ならいいだろうけど、

重力にかなり負けてる感じなわけだから、どうしても

左右がちぐはぐになるってことは避けられないわけで、
それもどうかなぁ、などと、真剣に考えてみた。

 専門の病院に行ってみて、乳がん患者さんがほんとに

多いんだな、という実感。これからもまめに検査しないとね。

 

2014年4月19日 (土)

桜の季節

 ながらくこちらのブログを放置しておりました。

 Facebookで簡単に投稿ができてしまうので、

こんなことになりましたが、少し考えをまとめたり、

ゆっくり考えながら書くには、やはりブログの方が

適していると思いますので、また少しずつ更新したい

と思います。

 仙台は、今週でどこも桜が満開になり、どこに行っても

綺麗な桜を見ることができました。

 昨日は、仙台家庭裁判所の玄関口へ行く途中で、

桜の花びらが舞い散る中を歩き、とても気分がよかったです。

 けれど、桜の季節が悲しい思い出の季節である人もいます。

 後見で時々お会いする女性の方は、ちょうどこの季節に

ご主人を亡くされ、毎年桜を見ると、悲しくて淋しくなる、と

言います。初めてお会いしたころに、よく考えもせず、

「ご自宅から、こんな綺麗な桜が見えて、いいですね」

なんて言ってしまった私は、とても後悔しました。

 成年後見や、未成年後見業務に関わっていると、

本当に色々な方の、それこそ十人十色な人生が見えてきて

それが辛いときもありますが、私の視野も少しずつ広くなって

いくような気がします。

 

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